しみずひろむの所感

しみずひろむが物申すブログです。

自分語り③ ~大学(就活・進路)編~

 最後、4年生のこの時期に就活とこれからの仕事についてまとめて、自分語りを締めたいと思います。就活の概説ともなる文章を目指します。

 

 まず、ベンチャーを除けば就活が始まるのは3年の6月頃。大きな企業で言うと、電通三井住友銀行インターン募集が始まりました。次いで、様々な大企業。俺の進路希望からすれば、新聞社や民放テレビ局、広告代理店のインターン募集も6月後半から7月頭に重なりました。

 

 個人的な夏のインターン戦績は最悪。民放のインターンはES通るも面接であがり不合格。情報収集不足で、広告代理店のインターンは対策が間に合わず、まともに受けられず。唯一参加したのは読売新聞の4DAYインターン(実質説明会)と朝日・毎日新聞の1DAYインターンでした。いずれも選考に直結するタイプのものではなく、成果と言えば新聞記者志望が強まったことくらいでした。

 

 反省が2つあります。

 

 1つ目は、就活の経験をあまり積めなかったこと。下調べが足りず、後手後手の動き出しとなったため、ES執筆・面接の経験がほとんどできませんでした。なんでもいいから、それぞれの企業の対策を行い、選考をたくさん経験すれば良かったと思ってます。

 

 2つ目は志望業界を絞り過ぎたこと。池上彰に憧れジャーナリストを目指したはずなのに、なぜか志望は新聞記者一辺倒。民放テレビ局・広告代理店は辛うじて関心ありでしたが、それ以外の業界は眼中なし。他の業界のことを知らないくせに、先入観を持って自分の志望を決めていました。

 

 そんなこんなで、新聞記者の知識がより一層深まった状態で秋冬就活に突入。その頃から、ゼミの数人で就活の情報を共有する文化が浸透し始めます。秋冬でインターン募集が本格化していく中で、これは大きな変化でした。ゼミメンバーの他の志望企業も視野に入れ、「とにかくたくさんのインターンに出そう」と気持ちを新たに就活第2シーズン開始。多くの企業を受けることが出来たので、徐々に選考に慣れ、ES・面接対応も洗練されていきました。ゼミの飲み会などで、ざっくばらんに就活の話題が上がり、自然に反省会を行えていたのも全体にとって良かったことだと思います。

 

 

 見ていた企業は多岐に渡りますが、秋冬(春)に参加したインターンは、民放テレビ局・総合商社・損害保険など。新聞社で大きなインターンはありませんでしたが、小さなイベントに参加し、業界研究を続けました。

 

 新聞社インターンが本格化する前に、大きな影響を受けたのは民放テレビ局。報道部門に参加し、新聞社とは異なる報道のかたちをカッコイイと思いました。それに、新聞の影響力と比較するとテレビの持つパワーは依然絶大。「新聞・テレビを問わず、報道に携わりたい」と志望が変化しました。

 

 なお、報道で具体的にどんなことをしたいか、ということもここに述べておきます。経緯は伏せますが、特に事件事故をやりたいと考えています。日本・世界各地で小さな事件事故はたくさん起きている。一般的に、それぞれ小さなニュースとして無関心に通過していくけれど、そこにある当事者の感情はあまりにも大きい。そのギャップが嫌でした。だから、多くの人に身近で起きている事件・事故、そしてそこにある大きな感情を伝えたい。それらを知ってもらい、「自分ごと化」してもらうのはとても意義のあることだと考え、面接でもこのように喋っていました。

 

 ともかく、12月の民放テレビ局本選考から本番就活開幕です。ここでボロが出ました。民放における報道の立ち位置を理解していなかったのです。民放は飽くまで総合職採用。記者になりたいと言ったところで、記者一筋でやっていける人などほとんどいません。そこの部分を履き違え、民放の稼ぎ頭であるバラエティなどのリサーチをせず。当時はテレビもあまり見ていなかったので、「テレビの魅力」という本質的な部分にも迫れていませんでした。

 

 原因は他にもあるでしょうが、選考の進み具合は違えど、民放はダメでした。自分なりに全力を尽くしたので、とにかく悔しかったです。一方で、テレビのエンタメコンテンツにあまり触れてきた身でない私からすれば、適性もなく「よくやった」という感想であるのも事実です。子どもには、テレビ・マンガ・ゲームでさんざん遊ばせてあげたいです。一見親から嫌われるコンテンツでも、子どものクリエイティビティを刺激ものなのだと確信しています。

 

 そんなこんなで、残すは冬から春にかけての新聞記者戦線のみ。秋ごろから毎日違う新聞を買って紙面を研究、それに加えて志望動機もじっくり練り上げていたので、不安はあまりありませんでした。民放での反省も活かして選考に臨みます。すると、民放での面接とは比べ物にならぬほどフィットするのが感じられました。それは一重に、新聞や記者業に関する研究・熱量が他の学生を圧倒するものだったんだろうなと思います。でも新聞に関しては、皆が読んでいなすぎるだけで、相対的に勝利を収めているだけだと思いますが・・・

 

 最終的に、大手全国紙・テレビ放送記者職・ネット広告代理店に内々定を頂き、テレビの放送記者になるつもりです。さっきまで、あれほどテレビへのコンプレックスというか、不勉強さを語っておいて変なのですが、最善の選択だったと確信しています(したいです)。この選択に至った経緯は2つあります。

 

 まず1つは、新聞記事だと、見てくれる層が購読者に限定されてしまうことが嫌でした。A新聞の記者になったとしても、B新聞を購読している人には基本的にはアプローチできないのです。入社時にターゲットがある程度絞られているのはちょっと悲しいですよね。

 

 2つ目は、映像の強さです。自分が取材して、人々の営みを文字に綴り、それが新聞となる。その新聞が実体を有し発行される(その後も文字は残りやすい)という点で、新聞は保存性が高いとよく言います。その強みは、もとより志望動機の1つとするほど大切にしていたものです。でもそれ以上に、「自分の文章では綴り切れない感情の機微がある」と思ったVTRがありました。それは、事件事故だけでなく、スポーツなど全てのジャンルに共通していることです。「とてつもなくインパクトのある瞬間に、付随する言葉など必要ないんだ」。そのような確信を持てる瞬間がありました。「書くこと」より、「感情の機微に迫り、それを伝えること」に大切なことを見出しました。

 

 そんなこんなで、進路を決め、残り1カ月の学生生活、回顧と後悔でくすぶっている状態です。青臭い大学時代の就活論を顧みる材料としても、ここに記せてよかったと思います。

 

 これからはいよいよ、物申す系ブロガーにシフトします。これがもともとやりたかったことなので、勢いそのままに文章書く癖を継続していきます。

自分語り② ~大学(就活以前)編~

 ここからは大学入学後の経歴について述べます。面白い記事にしようというより、これから出す物申す系記事を読んでくれた人が俺の経歴を気になった場合のプロフィール欄みたいな位置づけです。

 

 まず、大学入学時に所属したサークルは霞会・IIRです。IIRはノリで入りましたが、霞会は本命でした。暇な春休みに4月病が燃え上がり、国家公務員もありだな、と思うようになりました。そこから国会議員になりたいと考えるようになったためです。自然な流れで、経済理論勉強会に所属しました。

 

 入会後はサークル内で幅を利かせることに躍起になっていた気がします。マクロ・ミクロ経済学や経済数学の勉強を頑張っていたのは事実ですが、早いうちから「俺が次期チーフになる!」と周りの同期をけん制。1年生の頃は、本当に嫌なやつだった気がします。

 

 結果的に俺は経済理論勉強会のチーフになり、同期・後輩にも恵まれますが、それはイキっていた1年生時代、「やれやれ」と温かい目で見てくれた同期のおかげだと思ってます。チーフに立候補する段階で、同期との横のつながりが素敵なものでなかったら、俺は新歓での目指すべきスタンスを見失っていました。

 

 2年の春。「第一に、横のつながりを作ってあげる」という新歓コンセプトのもと、新春の日吉キャンパスで必死に新入生と話しました。38度の高熱でオリエンテーションをしたのも、今ではいい思い出です。毎週月曜日にマクロ、水曜日にミクロの勉強会。それらの基礎をほとんど網羅できるようにする勉強会運営は非常に大変でした。

 

 しかし、とっつきにくい「経済学の勉強」というコンテンツを介し、結果的に勉強に終始するだけでないコミュニティを形成できたのは、就活でも(たまに)アピールするくらいの大きな経験・自信となりました。

 

 なお、2年間の霞会活動を通して、進路希望に変化が生じました。霞会のOBOG会で官僚の方々とお話しすればするほどに、「俺が目指している働き方とはちょっと違うかも」と思いました。仮に天下国家を語るにしても、草の根の問題意識を拾い上げたいと思ったためです。あと、文転のきっかけとなったジャーナリストになる方が楽しそう、とも思ってました。

 

 そんなこんなで、一応国家公務員志望をやめないまでも、ジャーナリスト志望の方向へシフト。朝日新聞のワークショップに参加するなどして、より一層記者として働くビジョンを明確に持つようになります。一方で、国家公務員志望の延長線で考えていたはずの議員志望(群馬県知事になるなど息巻いていたりもしました)はなぜかそのまま持ち続け、ねじれたキャリアプランを持った状態でゼミ試験に突入しました。

 

 「本命は記者志望。あわよくば議員にもなりたいな」。そういう感じでゼミを選んでいくと、政策議論を行える財政学系のゼミが一番かなという考えに至りました。霞会の先輩も多かったこともあり、自然な流れで土居丈朗研究会への出願を決めます。定員は20名程度で、昨年度の出願者は35名程度。筆記試験には2年間で培ったマクロ・ミクロの知識を活かせるので、「大丈夫だろう」と楽観視してました。

 

 そして迎えた忘れもしない2017年2月4日・ゼミ出願日。慶應の経済学部はアナログな出願方法をとっており、大教室でそれぞれのゼミの名前が呼ばれたら、そのゼミを志望している学生が願書を手渡しするというものです。「土居丈朗研究会」と点呼された際の教室は壮観でした。ざっと見積もって50名を超える学生が一斉に起立して前方に向かうためです。「ノンゼミでは三田生活を充実させられない」と思っていたので、めちゃくちゃネガティブな気持ちになりました。その日は8組のクラスメイトと、やけくそで昼から終電まで5次会にまでもつれ込む飲み会をしました。かなり印象深い思い出です。その頃は日本酒のにおいを嗅ぐだけで気持ち悪くなっていたのに…

 

 そして、本番は「筆記試験が難しい」⇔「差が付きやすく、がり勉勢の俺に有利」であったこともあり、自信を持って面接に臨めました。「これで落ちたらわけわからん」というテンションで発表を見て、無事合格。とはいえ、発表直前は気が気ではありませんでしたが。3年生からは土居丈朗研究会での活動が、三田生活を代表するようになります。

 

 そして、土居丈朗研究会でできた友人たちと、新しく楽しい日々を送るようになるのですが、気づけば遊んでばかり。このブログで特筆すべきことは特にありませんね。次の記事で、就活から今に至るまでを記し、いよいよ次の次から物申していこうと思います。

 

 今書いてるこの記事、俺の半生を紹介しようとしていますが、就活での経験以上に自分のことを冷静に振り返っているかもです。自分にとって有益な文章になっている気がします。以上。

 

 次回 大学編(就活・進路)に続く

自分語り① ~大学進学編~

 自己紹介なので、簡潔にまじめに書きます。それぞれの経験についての深堀りは追ってつらつら書いていこうと思ってます。

 

 私、清水大夢は、群馬県みなかみ町で18歳まで暮らしました。中学までは、スポーツや川遊び、バンド活動に明け暮れていましたが、高校進学と共に一念発起受験に邁進。東進に入り浸る生活を送っていました。娯楽と言えば、カラオケと遊戯王くらい。母が看護師ということもあり、漠然と医学部を目指してストイックに勉強していました。

 

 転機は高3の秋冬。社会は政経選択であったため、池上彰の番組は見るようにしていた私。ダイナミックな世界各地の動向をわかりやすく解説する池上さんを見るうちに、その視聴目的が「情報収集」から「記者・キャスターとしての池上彰への憧憬」に変わっていきました。

 

 加えて、志望校・群馬大学医学部医学科へ進学できた場合、それからどのような仕事をしていくかということに初めて想いを馳せました。地元で、人々に寄り添い医療に従事する。安定した収入も得ることができ、尊い職業であることはもちろんわかっています。

 

 でも、それ以上に「この選択をしたら後悔する」と思いました。そう思う理由は、「社会ではこんなにたくさんのことが起きているのに、そのほとんどが無関係に通過していく環境に身を置いたら必ず嫉妬する」というものでした。「社会問題の最前線でそれに立ち向かいたい」という熱がふつふつと溢れてくるようになったのです。

 

 そこからは迷いませんでした。文転の選択は、医学部進学が成功した場合に比べてほとんどの場合年収を下げるものです。しかし、それ以上に初めて自分の進路希望を熱く持てた確信があったのです。センター試験まで1カ月を切っていたため、センターは理系のまま突入。センター試験への気負いがなかったので、思いの外悪くない得点でした。

 

 そして大本命の私立文系入試の始まりです。受験校は中央法法・慶應経済・早稲田政経/社学としました。幸い4つの受験校全てから合格を頂き、志望校を決定。マスコミ志望としては早稲田の方が良いと聞いてはいたのですが、池上彰の出身校・学部ということもあり、慶應経済に決めました。

 

 ちなみに… 一方で、3年間医学部を目指してひたむきに理系科目を勉強していたこともあり、意地でも群馬大学医学部医学科にも受かりたいと思っていました。が、私文対策に時間をとられたり、モチベーションも下がっていたりとしたので、結果は不合格でした。意志薄弱、だいぶ恥ずかしかったです。

 

 そんなこんなで、18年暮らした群馬の地を離れそこからは横浜で一人暮らし、日吉キャンパスでの学生生活準備を始めます。

 

 次回 大学編(就活以前)に続く